江戸時代の料理
江戸時代の料理 [編集]
江戸時代には、都市文化が繁栄し、当時の献立や料理書によればその料理の内容が豊かであったことが知られる。天ぷら、麦湯などの屋台による町人の料理が発達した。にぎり寿司や蕎麦の専門料理店ができるのもこのころである。また、都市部を中心に発達したお留守居茶屋などの料亭の料理は、酒を飲みながら料理を食べる形式で本膳や懐石のように作法にあまりとらわれないのが特徴であり、これを会席料理と称した(現在最も多く行われているのはこの会席料理である)。関東地方で濃口醤油が発明され、調味や色付けに醤油が多用されるようになった。鰹節や昆布で出汁をとる技術が高度に発達し、砂糖の普及により、甘い和菓子が食べられるようになった。陶器、磁器を使い、凝った絵付けを施した食器が広く普及した。また薬食として牛肉など肉食もわずかに行なわれた。江戸時代中期には、輪違い大根に代表される「見立て」という飾り包丁の技法が発達した。また、この時代には黄身返し卵などの珍料理が生み出されている。
関東の料理 [編集]
江戸は政治の中心地であり、諸大名の参勤交代をはじめ広く地方の産物や料理法が持ち込まれ、海の幸・山の幸に恵まれた関東の地で華麗な江戸料理の伝統が花開いた。江戸湾内で豊富に採れる魚介類は江戸前の名を生ずるほど優れており、近海で穫れるマグロなどの刺身は献立に欠かせぬものとなった。また、タイは「めでたい」の語呂から姿焼きで膳に飾られる事が多く、きんとんや蒲鉾などの口取りを添えてみやげ物として持ち帰る風習が生まれた。こういった中で鮮度と産地を重視する江戸料理が生まれ、八寸や口取りから始まるコース化した日本料理の先駆けとなった本膳料理とともに、今日の高級な料理の骨子と要素を構築したといわれている。
元禄年間以降、町人の手になる江戸料理が発達しはじめる。富裕な階層を相手にした高級料亭から、蕎麦や丼物といった庶民の味まで、さまざまな食文化が生まれた。地方出身の単身者が多かった江戸では、蕎麦やてんぷらなどの屋台が栄えた。江戸時代から調味料として醤油が盛んに用いられるようになり、江戸近郊では濃口醤油が大量生産されるようになった。関東では汁物や煮物にも濃口醤油を利用し、冷めても味を損じない濃い味付けが行われ、折り詰などの土産料理として発達した。
関西料理 [編集]
京都、大阪の料理は「上方料理」「関西料理」と呼ばれた。上方には北前船により日本海の海産物がもたらされ、北海道産の昆布の利用が発達した。華やかな江戸文化に対して京都は伝統的な優雅さが特徴でそれは料理の上にも反映された。京都は寺院料理の影響をうけ、また海産物に乏しいことから野菜や乾物を使った料理に発展をみた。豆腐、湯葉などの細やかな味を生かすために薄味の料理法が発達した。干しダラや身欠ニシンなどの保存食を上手に料理するのも特徴であった。一方、商業都市として発展をみた大阪は海に近く、魚介も豊かで地方の産物も集まるところから、「天下の台所」と謳われるほどであった。作法よりも食べて旨い料理に主点が置かれ、冷たくしてお土産に持ち帰る料理よりその場で食べてしまう料理という視点が強かった。
西洋料理の流入 [編集]
明治になると、神仏分離、廃仏毀釈により肉食が解禁され牛鍋などが登場した。一方、料理の流派は包丁式を残し衰退した。それまで本式の料理とされていた本膳料理は衰退した。この時点で伝統的な日本料理の主要な業態は、会席料理を主とする料亭や高級旅館に移ったと言える。(寺院を主な対象とする精進料理・茶人を主な対象とする懐石料理は独自性を保って現在まで続いている)白菜やホウレンソウの本格的な栽培もこのころである。西洋料理が入ってきて外国人と交渉のある社会階層で食べられるようになった。各地の西洋料理店では日本人の口に合うように改変された洋食が生み出される。大正時代までは西洋料理は外で食べるものという意識が強かったが、上層から家庭料理にも徐々に浸透しはじめる。また,軍隊からジャガイモや牛肉などを使う食習慣が広まっていった。都市部の家庭ではちゃぶ台が使われ、それまでの家父長制的な銘々膳の作法から、食事が家族だんらんの場として認識されるようになってくる。
江戸時代には、都市文化が繁栄し、当時の献立や料理書によればその料理の内容が豊かであったことが知られる。天ぷら、麦湯などの屋台による町人の料理が発達した。にぎり寿司や蕎麦の専門料理店ができるのもこのころである。また、都市部を中心に発達したお留守居茶屋などの料亭の料理は、酒を飲みながら料理を食べる形式で本膳や懐石のように作法にあまりとらわれないのが特徴であり、これを会席料理と称した(現在最も多く行われているのはこの会席料理である)。関東地方で濃口醤油が発明され、調味や色付けに醤油が多用されるようになった。鰹節や昆布で出汁をとる技術が高度に発達し、砂糖の普及により、甘い和菓子が食べられるようになった。陶器、磁器を使い、凝った絵付けを施した食器が広く普及した。また薬食として牛肉など肉食もわずかに行なわれた。江戸時代中期には、輪違い大根に代表される「見立て」という飾り包丁の技法が発達した。また、この時代には黄身返し卵などの珍料理が生み出されている。
関東の料理 [編集]
江戸は政治の中心地であり、諸大名の参勤交代をはじめ広く地方の産物や料理法が持ち込まれ、海の幸・山の幸に恵まれた関東の地で華麗な江戸料理の伝統が花開いた。江戸湾内で豊富に採れる魚介類は江戸前の名を生ずるほど優れており、近海で穫れるマグロなどの刺身は献立に欠かせぬものとなった。また、タイは「めでたい」の語呂から姿焼きで膳に飾られる事が多く、きんとんや蒲鉾などの口取りを添えてみやげ物として持ち帰る風習が生まれた。こういった中で鮮度と産地を重視する江戸料理が生まれ、八寸や口取りから始まるコース化した日本料理の先駆けとなった本膳料理とともに、今日の高級な料理の骨子と要素を構築したといわれている。
元禄年間以降、町人の手になる江戸料理が発達しはじめる。富裕な階層を相手にした高級料亭から、蕎麦や丼物といった庶民の味まで、さまざまな食文化が生まれた。地方出身の単身者が多かった江戸では、蕎麦やてんぷらなどの屋台が栄えた。江戸時代から調味料として醤油が盛んに用いられるようになり、江戸近郊では濃口醤油が大量生産されるようになった。関東では汁物や煮物にも濃口醤油を利用し、冷めても味を損じない濃い味付けが行われ、折り詰などの土産料理として発達した。
関西料理 [編集]
京都、大阪の料理は「上方料理」「関西料理」と呼ばれた。上方には北前船により日本海の海産物がもたらされ、北海道産の昆布の利用が発達した。華やかな江戸文化に対して京都は伝統的な優雅さが特徴でそれは料理の上にも反映された。京都は寺院料理の影響をうけ、また海産物に乏しいことから野菜や乾物を使った料理に発展をみた。豆腐、湯葉などの細やかな味を生かすために薄味の料理法が発達した。干しダラや身欠ニシンなどの保存食を上手に料理するのも特徴であった。一方、商業都市として発展をみた大阪は海に近く、魚介も豊かで地方の産物も集まるところから、「天下の台所」と謳われるほどであった。作法よりも食べて旨い料理に主点が置かれ、冷たくしてお土産に持ち帰る料理よりその場で食べてしまう料理という視点が強かった。
西洋料理の流入 [編集]
明治になると、神仏分離、廃仏毀釈により肉食が解禁され牛鍋などが登場した。一方、料理の流派は包丁式を残し衰退した。それまで本式の料理とされていた本膳料理は衰退した。この時点で伝統的な日本料理の主要な業態は、会席料理を主とする料亭や高級旅館に移ったと言える。(寺院を主な対象とする精進料理・茶人を主な対象とする懐石料理は独自性を保って現在まで続いている)白菜やホウレンソウの本格的な栽培もこのころである。西洋料理が入ってきて外国人と交渉のある社会階層で食べられるようになった。各地の西洋料理店では日本人の口に合うように改変された洋食が生み出される。大正時代までは西洋料理は外で食べるものという意識が強かったが、上層から家庭料理にも徐々に浸透しはじめる。また,軍隊からジャガイモや牛肉などを使う食習慣が広まっていった。都市部の家庭ではちゃぶ台が使われ、それまでの家父長制的な銘々膳の作法から、食事が家族だんらんの場として認識されるようになってくる。
theme : 冬の思い出----冬之回忆
genre : 美食享用



